台東レオーネ・LCジュニアの歴史をあさるコーナー

<昔昔のお話です>

   写真は主宰者が小学校6年生のときの鴨川夏合宿の時の写真である。ど真ん中にいるのが私である。

  そしてサングラスをかけている怖そうな人が、先代監督である故 小坂浅一氏でその向かって右に

   いるひげのおじさんが当時小学部ヘッドコーチ兼中学部初代監督の故 堀 英二氏である。私の世話に

   なった両監督はすでにこの世にいない。お二人から学びたいことがまだまだ自分も現監督もたくさん

   あったはず・・・さて堀さんのよこにいるのがまだまだ40歳になるかならないかの父親。若いのぉ。

  さてあらためて主宰者である私「さじにい」とレオーネの深い深いつながりを記憶の奥深くからほり

   だしてみましょう。

<台東レオーネとのつながり・・・>

   竹町小学校3年生の時に「台東レオーネ」という野球チームに入る。当時3年生の時は公式戦がなく、

  なぜかいつも練習試合の相手は「松葉」であった。勝ったり負けたりであったことを覚えている。4年

  生になって監督コーチが一新した。このとき現監督である自分の父親がコーチとして関わることとなる。

  自分は小さい体のせいでこのとき内野からライトへコンバートされる。つまり野球が下手だったという

  ことだ。

   6年生になって、球友リーグにおいて、春期優勝を飾った。結局小学校のとき我々の優勝はこれだけ。

  他のトーナメント戦では、いつも「ジャガーズ」に負けていた。新人戦かなんかのときに、フェニックス

  ・ジャガーズ連合軍「J・P」に完封負けし、自分がチーム唯一のヒットを打っただけで取材されて雑誌

  「ドンマイ」にのったことがある。

 <台東レオーネ中学部> (昭和63年〜平成2年)

  御徒町中学に入学後、創部3年目の中学部へ入る。父も共にあがってくる。最初の1年半は、あまり試合

 にでれる機会もなく、何となく過ごす。しかし中学2年生の春になると同時に、ちょっとだけ野球に目覚め

 る。このとき同じクラスであった友人が「サミットパワーズ」の選手であり、特に闘志を燃やす・・・わけ

 でもなく、その年は春の大会はボールメイツ、サミットパワーズに負けて2位タイ。秋はその屈辱戦ではあ

 ったがなんとサミットにはまた負けたが、永遠のライバル?ボールメイツには勝利し、6勝1敗1分けで優

 勝した。3年生になると、周りのチームも強くなり、余りよい成績が収められず、夏の区民体育祭を最後に

 引退する・・・当時の詳しい成績は私の生徒手帳をご覧ください

   <空白の2年間> (平成3年、4年)

  白鴎高校に入学してから2年間は、野球とは離れて過ごしていた。このときがレオーネ小学部の変わり目

 の年で、我が弟も入部したのである。しかし部員数は減る一方でひとり休むと試合ができない年もあった。

   <第1次黄金期> (平成5年〜8年)

 平成5年、私が高校3年の冬にコーチとしてレオーネに帰る。しかしまず驚いたのは昔とのギャップであっ

た。野球に対しての子供の考え、態度など。それを克服する前に、小学部でずっとお世話になった小坂前監督

の闘病、死に直面することになる。

 そんな中で、弟が小学校5年の時の平成6年球友リーグBリーグで全勝優勝。はっきりいってあのときのメ

ンバーは反則的に強かった。そのときまでは・・・

 小坂監督の亡くなる前に、父親が監督業を引き継いだ。レオーネはメンバーだけなら一流であったがなにせ

、練習態度は三流であったため、弟の6年の時は最後まで不調であった。

 平成8年、台東レオーネ小学部はエース元木悠介の出現でいいところまで行くが、結果はさえなかった。最

後の3月、区長杯。黄金期にあったファイターズに対し、ぎりぎりまで耐えたが、最後は無念のゲッツー。あ

のときのバッター3番小林卓也。一打でれば逆転サヨナラというところだった。私は元木まで回れば勝てると

思ったが。あのときのネクストサークルでうなだれる元木。サードランナーで泣きながら私の所に抱きついて

きた忍田雄次朗の泣き顔は未だに忘れられず・・・今も思うと涙して来る。

 この年、中学部の堀監督が急死。私は世話になった監督2人とも亡くしてしまう。

  <第2黄金期>  平成9年〜平成11年

    平成9年 (Aキャプテン 松永 卓也  エースナンバー 宮沢 翔)

         (Bキャプテン 大森 裕一郎) 

 平成9年は、6年生も少なく5年生も入り立ての新人ばっかりでAリーグは成果がでない。しかし私は

教育リーグ担当になって2年目を迎え、この年はスパルタに近い指導で4年生以下をやさしく指導した。

それに答えを出してくれるメンバーでもあったからだ。そして前期リーグ戦。上野クラブとの戦いに決勝

で敗れ準優勝。雪辱を果たすべく秋の区民体育祭へ。1回戦からベスト4までは難なく勝ち上がり、準決

勝、決勝のダブルヘッダーを迎えた。準決勝のジャニーズ戦は山口銀次郎が先発しいつものようにあたふ

たし、すぐに大森へスイッチ。なんとか試合を物にし、決勝へ進出する。相手はもちろんリーグ戦の覇者

上野クラブとの再戦。点を取ったりとられたりの死闘に次ぐ死闘の中1点勝ちの展開で最終回。山口の後

を受けたピッチャー大森裕一郎は連投でばてばて。その中で無死2,3塁の大ピンチ。私も敗戦を覚悟し

たが、大森はがんばって2死3塁がんばり最後のバッターを三ゴロにうちとり、私が台東レオーネに関わ

って初めて台東区を制覇し、代表権を得て23区大会へ乗り込んだ。結果は1回戦世田谷区代表の世田谷

ドラゴンズには7−0のコールド勝ちを収めたが、2回戦、強豪新宿区の淀四ライオンズに完敗。結局そ

の大会では淀四ライオンズが優勝した。うちとしてはBIGな舞台で2回も試合ができただけで名誉な事

であった。しかしこの2年後にまさか苦労するとは夢にも思わなかった。

   平成10年 (Aキャプテン 柳沢 庄吾  エースナンバー 篠 貴昌)

          (Bキャプテン  赤木 創)  

 平成10年は、もともとこの年の6年生自体が、野球を始めた時期が遅く、そんな中でリトルロジャー

ズから林隆介も移籍してきた。彼をなんとかエースにしようと指導してきたが、いまいち結果は出ず、前

年優勝したこの年の5年生も最後まで1学年上のボールについていくのもやっとで、トーナメント大会で

は1回戦負けの連続。なんとか首の皮1枚でつながったリーグ戦は2位で決勝トーナメントに進んだが、

都知事杯まで後1勝のところで、KSクラブにこてんぱんにやられ、出場を逃す。でもこの学年最後の

区長杯では、1回戦レインボーズに抽選勝ちをするという万馬券をたたきこみ、次の2回戦で敗れはした

が、有終の美を飾った・・・ことにしておこう。この年は私自身としては辛抱、そしていかにいい具合に

翌年のために5年生を鍛えつつ来年の大会完全制覇を狙い、当時の6年には野球を覚え込ませることで精

一杯であった。最後なんとか篠くんをピッチャーとしてデビューさせるに至ったことだけはよかったとは

考えていた。

  平成11年 (Aキャプテン 大森 裕一郎  エースナンバー 寺井 剛 )

         (Bキャプテン 藤本 健次郎)

 そして勝負をかける平成11年が来た。2月の区長杯では、フェニックスの6年生相手にぎりぎりの所

で1回戦負けはしたものの、今年にかけてある程度の手応えはつかんだ。しかし悪夢は突然やってきた。

エースの大森が学校の体育の授業で肩を負傷し、右では大人になるまでドクターストップがかかり、手術

も不可能との診断。左で努力するという決意に心打たれたが一気にエースを失う。そして学業専念という

ことで正捕手も失い、また私立受験を表明していた2人の選手も塾と野球の両方で体力が持たず、練習不

足になる。そして5年生のレギュラー2人が学業優先のために退部。私の考えていたすべてが崩壊した。

努力することを忘れてしまったような多くの6年生と経験不足の5年生で、チームは統一できずに、どう

しようもないもどかしさに私も少し精神的に病気になる。

 しかし寺井 剛がオール台東のメンバーに選ばれてから少しずつ光は見えてきた。なんとか打線と守備の

軸も固まり、トーナメント戦では区民体育祭3位。やっとメダルを手に入れる。メダルを取るのに今年こ

んなに苦労するとは思わなかった。そしてリーグ戦も最終戦、相手は前年都知事杯への出場を阻止された

KSクラブ。1点差のビハインドから最終回前に見事逆転し、勝利を収め、決勝トーナメントへぎりぎり

で進出した。決勝トーナメント1回戦の結果はジャニーズ相手にまさかのコールド負け。今までやってき

たことを出し尽くせないまま、中途半端に6年生もほとんどの公式戦を終えてしまった。 

 一方教育リーグでは、忍田コーチ、河野コーチのメインでの指導のもと、リーグ戦では無敗を守ってい

る。なかでも今年は宿敵にリバーサイドJr.がいる。リーグ戦ではレオーネの勝利、区民体育祭1回戦でま

たもや対戦し、今度はリバーサイドJr.が2−1で勝利。今年の通算成績は1勝1敗。今度いつ対戦するか

はわからないが、おそらく6年生になるまで、ずっとライバル同士でありつづけたい。それが子供のやる気

に通じてくるはずである。第3期の黄金期へ向かって、古い時代が幕を閉じ、新しい時代が幕を開けようと

してきている。来年は2000年。この年に私のコーチ時代4年間をかけた6年生が不発のまま卒業するこ

とは少し責任を感じるが、今年で区切りをつけて、来年新しい年をいい形で迎えていきたい。

  平成12年 (Aキャプテン 山崎 裕介  エースナンバー 福島 信善 )

         (Bキャプテン 下田 敏之)

 第2期黄金時代も終わりを告げて始まった2000年のレギュラーのシーズン。昨年まで8名いた6年生世

代も受験組の退部で4名まで減ってしまい、頼みは昨年ジュニアチャンピオンの5年生、人数は少ないながら

も実力は上級生にひけをとらない4年生であった。リーグ戦初戦の芝一ビーバーズ戦はそんな不安をいっそう

するような快勝で順調な滑り出しを出したかに見えたが、育ちきれないエース福島。昨年から伸びた2mの距

離に最後まで悩んだ藤本。2人のピッチャーの不調は1年間続き、結果的には年間5勝しかできず。不本意な

シーズンとなってしまった。

 しかし、6年生も体はしっかり大きくなってきた。センスは感じられないまでもほとんど休まずに練習を積

んできた6年生の体力にはさすがの5年生もついていけない。一番の体の成長は海老沢に見受けられた。そし

てパワーだけなら太田のスイングは私が見ていても恐ろしい。キャッチャーとして忍田コーチとの猛特訓に耐

え、しっかり正捕手の座を守った山崎のがんばりには頭が下がる。ボールのスピードならチームNo.1、コント

ロールの悪さもチームNo.1、差し引きして大きなマイナスとなってしまった福島。私の指導の悪さもある。

 5年生は人数は9人となったが、そのうち3人は受験組である。野球との両立は大変であろうができる限り

がんばってほしい。藤本・出口・根日屋を中心にできる限り森田も加わり。チームを引っ張っていってほしい。

 さて、3月にやっと9人そろって始まったジュニアチームも次第にメンバーが増えて、4年生は8人まで増

えてきた。それに目標1勝のはずが、前期リーグ戦は勝ち越し。後期は王者相手に善戦するようなチームに育

ってくれた。河野コーチ・須賀コーチを中心によくここまで育ててくれました。

 問題は2・3年生です。2学年で堀越・上村・井上3人しかいなかったものの、仁平の加入で4人目。まだ

まだ人数が足りません。みなさん勧誘よろしくお願いいたします。

 1年生は5人そろっています。みんな上級生も顔負けの元気の良さで先が楽しみです。まずは来年2・3年

そろって「野球」の試合になるようにがんばりましょう

  平成13年 (Aキャプテン 藤本 健次郎  エースナンバー 森田 修平 )

         (Bキャプテン 堀越 宗一郎)

 第3黄金期になろうかという勢いでシーズンが始まったが、3大会予選トーナメントでは敗者復活戦で復活

できずに敗退。区民体育祭も早々に敗退と上部大会への出場はならなかった。しかしリーグ戦では9勝1敗1

分けのリーグ首位で準決勝へ進出。やっぱり相手は3年間の最終決戦リバーサイドジュニア。雨の中の大死闘

であったが、逆転しながらも最終回追いつかれ、結果的には引き分けの抽選。最後の上部大会のかかるしかも

決勝への進出を決める大事な試合で雨という敵と日程という敵が運をレオーネから遠ざけて抽選負けし、3位

決定戦へ。

 この3位決定戦では上野クラブとの対決。最終回2アウト完全に上野クラブペースで万事休すかと思われた

試合を逆転サヨナラに導いてくれたのが、何回も挫折しかけ、休部も味わい、復活して日夜努力していた(と

思われる)根日屋くんであった。3位というブロンズメダルを勝ち取った根日屋くんのあのセンターへ抜ける

ボールの弾道は生涯忘れることがないであろう。根日屋くんが打った打球だけに・・・

 ただ年間を通してキャプテン兼エースの藤本くんがよく投げてくれました。オール台東にも選ばれ、人間的

にも成長しました。内野陣は5年生で固めたこの布陣でなんとか来年は1つでも多くのメダルをねらいます。

 

 平成14年 (Aキャプテン 黒川 大介  エースナンバー 田和 天馬 )

       (Bキャプテン 仁平 賢治)

 6年生が全員で8人というチーム構成。密かに上部大会出場をねらっていたのであるが、宮田くんが受験戦

争に派遣となり1年間休部したのをはじめ、練習や試合には6年生が全員そろうことは少なく、毎回必ず誰か

が休むという、つらい1年となった。

 ピッチャーの渡辺くんは高い身長から投げおろすストレートが速かったが、コントロールに難があるため、

なかなか試合ではいいピッチングができなかった。しかも打線も湿りがちで勝てそうで勝てないチームになっ

てしまった。6年生は典型的な都会っ子という感じで、チームの中ではうるさかったり、はしゃいだりしても、

試合では全然おとなしくなってしまうような選手たちでなかなか殻を破ることができなかったことがくやしい。

 個人個人では黒川くんの守備は抜群だったし、松居くんの肩も魅力的。田和くんの運動センスもよし、堀田

くんは最後に打撃が開眼した。増茂くん北条くんの当たったときのパワーも素晴らしい。ただし、それぞれの

個性が1本の線としてつながらなかったのは指導者の悪さかもしれない。

 メダルが1つも取れなかった平成14年。ずっと出場していたリーグ戦の決勝トーナメントも進めず、本当

に悔しい悔しい1年となってしまった。そして個人的には人事異動で練習や試合に休むこともあり、本当に迷

惑をかけてしまった1年であった・・・

 唯一の救いは久々にウィングスに3名の選手が進んだこと。ぜひともレオーネで成し遂げられなかった自分

の手でのメダルを勝ち取ってほしい。


  平成15年 (Aキャプテン 堀越 宗一郎  エースナンバー 仁平 賢治)

        (Bキャプテン 飯田 航也)

 この年はコンドルズと活動をすべてともにすることとなった。レオーネでは堀越くんひとり。コンドルズの

方も小新くんが一人であとは5年生に頼るチームだった。結果的には堀越くんがもうすこし安定性のあるバッ

ティング・ピッチングがあれば上位に食い込めたのであるが、どうしても5年生の仁平・田上そして4年生に

頼るチームとなってしまい、リーグ戦も低迷してしまった。

 ジュニアは2年計画の2年目。区民体育祭での優勝をねらったが、プレッシャーのかからないリーグ戦では

すばらしい勝ち方ができてもトーナメント戦ではすべて初戦敗退。最後の決勝トーナメントでも強豪ファイタ

ーズに7−0とリードしながらも最後はエースの清水くんが沈んでしまいサヨナラ負け。翌年に向けての悲劇

はここからはじまっていたのかもしれない。
 
 そんな中でもレギュラーリーグの中においても首位打者は4年の吉里くん、盗塁王は飯田くんが取るなど上

級生も顔負けのヤングパワーの出現が激しい1年であった。

 平成16年度はこの4年生が全部で10人以上いる。この学年での勝負は怪物崎山を擁するリトルロジャー

ズ。バッテリーを中心に総合力勝負のファイターズ。打線がとどまるところを知らないKSクラブとLCジュ

ニア(今度はレオーネか・・・)の4強の時代になると思われるが、いつの間にか強くなるフェニックス・ジ

ャニーズ・富士クラブなどほかのチームは我々を追い越せという勢いで成長してくる。それを跳ね返すように

5年生にはがんばってほしい。



 平成16年  (Aキャプテン 渡辺 智弘  エースナンバー 飯田 航也)

        (Bキャプテン 平ア 旭)

 主力は5年生ということでレギュラーは苦心のシーズンとなってしまいました。ジュニアは初めてKSクラブ

ともタッグをくんでがんばりました。ただ、結果にマケズにいろいろな大会に参加しました。春のRSYY大会

では、初めて1回戦突破を果たしたのもこの世代でした。


 平成17年  (Aキャプテン 飯田 航也  エースナンバー 工 佑貴也)
    
        (Bキャプテン 田和 偉織)

 台東レオーネ最強伝説の完結編の1年でした。

 夏までは大事なところでエラーがでたり、打てなかったりで結局冠を取れず。ただ、合宿を超えて強くなった。

一番のベストゲームは落合コメッツ戦。藤本くんが2−1で完投勝利。相手投手の剛速球をひじにあてて、おも

いっきり腫れ上がったのを我慢してのピッチングは最高だった。そして野崎くんの2アウト2ストライクからの

完璧なスクイズ。相手の隙をついてのまさに奇襲でした。サインを出したのは・・・オレだ!!
 
 年を越えて最後の区長杯も、ベスト4まで勝ち上がり、準決勝で宿敵崎山のいるリトルロジャース戦で力尽きた。

最後は銅メダルを首に掲げて伝説は幕を閉じ、半数の選手は中学へ伝説は引き継がれた。

 守備も走塁も打撃も最後はすばらしいチームに成長したと思います。中学ではほとんどみんながバラバラになり

ましたが、最後まであきらめずに伝説をもう一度作り上げてほしい。


 平成18年  (Aキャプテン 平ア 旭  エースナンバー 大滝 秀)
    
        (Bキャプテン 和井田 優太)

 ついに長い歴史をほこる「台東レオーネ」と「コンドルズ」のラストイヤーとなった。この年はKSクラブから

引き継いだ4名を含めて7名の6年生がいたはずなんだけど・・・シーズンイヤーはぱっとしなかった。なんとか

年明けの区長杯では2回戦サンジュニアになんと抽選勝ちでベスト4入り。負けたサンジュニアは父母号泣。でも

それよりも、相手チームであるオレの方がもらい泣きの最大の一戦であった。結局はベスト4で敗れたが、台東レ

オーネとオイラの20年以上の長い歴史は最後銅メダルで幕を閉じた。

 そして「LCジュニア」への伝説へ・・・

 .
 平成19年  (Aキャプテン 田和 偉織  エースナンバー 有戸 星羅 → 塚田 昌悟)
   
         ジュニアキャプテン 佐藤 俊弥)

 LCジュニアというひとつのチームになって初年度。残念ながらいきなりエース有戸くんの転校&チーム退部と

いう事件から始まり、結局は白星は乏しく楽天もびっくりの最下位に沈む・・・

 Bチームは新榮くんの加入で少しは勝てるもののメダルにはほど遠く・・・


 平成20年  (Aキャプテン 和井田 優太 エースナンバー 戸田 稔明)

         ジュニアキャプテン 川上 隼平)

 LCジュニア2期生。6年生の人数はそろってはいながらなかなか勝利に導くことのできない年でした。

そんな中でもジュニアはだんだん戦力が整いつつあり、レギュラーの不振をジュニアがカバーしてくれる

年でした。


 平成21年  (Aキャプテン 与板 遼也  エースナンバー 新榮 宏之)

        (ジュニアキャプテン 高木 佑人)

 レギュラーはエースの新榮くんを擁し、全日本予選はついに決勝まで進出しました。ただ、かわいそうな

ことにこの年はリバーサイドジュニアが最強の世代となり、決勝ではコールド負け。続く関東学童予選代表

決定戦では雨のため急遽、友好連盟である中央区にお借りして実現した浜町公園野球場でリトルロジャース

相手に惜敗。

 曰く「サッカーゴールの悲劇」

 新榮くんの打った右中間のホームラン性のあたりがサッカーゴール内へ見事「ゴール」。グランドルールに

より、2ベースとなったのでした(ToT)

 これをきっかけに終戦でした。

 秋の大会はファイターズに1回戦で善戦するもガチで敗戦。

 リーグ戦では準決勝でまたまたリバーサイドジュニアに敗れはしましたが、チーム初のリーグ戦第3位という

ことで銅メダルをいただきました。


 平成22年  (Aキャプテン 川上 隼平  エースナンバー 塚田 昌也

         ジュニアキャプテン 和井田 大介)

 つづく・・・